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ブランドコラム

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イタリア発祥 ブランド PRADAが歩んだ軌跡

2022.9.2

コラム
太田店
店舗
高崎店

ブランド「PRADA」誕生

ブランド「PRADA」誕生

こんにちは!ベクトル高崎高関店です。

今回、ご紹介するのは世界中の人々を魅了してやまない、言わずと知れたハイブランドの『PRADA』について話していきたいと思います。

 

1913年、日本でいうと大正2年(宝塚歌劇団が誕生した年)にマリオ・プラダとマルティーノ・プラダの兄弟が、ミラノにプラダ1号店としてフラテッリ・プラダ(カバン工房)を開業します。

プラダ兄弟は世界各地からクロコダイル、パイソン、セイウチ、象など珍しい素材や高品質で上品な皮革を集めて製品を作っていました。

 

二人が製作した革製品はイタリアの上流階級の目にとまり、瞬く間にヨーロッパ全土に知れ渡り、評判を呼び、創業数年でイタリア王室御用達となりました。

その後、兄のマリオは、セイウチの革などで作られた旅行カバンに対し、重いスーツケースは実用的ではないと思い、軽い防水生地が使われているバッグを発表しました。

 

そのバッグは世界中のビジネスマンや富裕層の人々から支持されました。 その後も順調に事業を進めていき、プラダはマンゾーニ通りに2号店を開店しました。

 

しかし当時は第一次世界大戦から第二次世界大戦かけての時代で、順調にいっていたプラダにも高級革製品を持って旅行するということは時代にそぐわないものになり、そのことが大きく影響をもたらしました。

 

戦争という緊急事態において、派手なカバンを持って旅行する時代も幕を閉じます。

 

ミラノに開店予定だった3号店は中止となり、ミラノの本店は経営不振に陥り持ちこたえていましたが、爆撃にあってしまいました。

 

さらに経営不振に拍車がかかり、本店を残し2号店も閉店してしまいます。

 

弟のマルティーノ・プラダは第一次世界大戦から第二次世界大戦中に政治的問題で兄マリオ・プラダのもとを離れて、その後は兄マリオ・プラダのみでの経営となります。

 

1958年に創業者であるマリオ・プラダがこの世を去ります。あとを継いだのは、マリオの二人の娘であるナンザとルイーダでした。

 

上流階級をターゲットに高級革製品の老舗としての知名度を誇ったプラダは、大きく方向転換をします。

 

ターゲット層をこれまでの上流階級から、戦後復興の立役者であった中流階級に変更しました。

 

その後、人々の価値観や生活スタイルなどの時代の変化に取り残され、ブランドが大きく飛躍することはなく、プラダの人気は1970年代に急速に下降していき低迷期に突入します。

PRADA再建の立役者「ミウッチャ・プラダ」

PRADA再建の立役者「ミウッチャ・プラダ」

低迷していたプラダでしたが、創業者マリオの娘ルイーザ・プラダの子供であるミウッチャ・プラダが、1978年にオーナー兼デザイナーに就任したことにより復活を果たします。

 

その始まりには少し前のある出会いが重要なきっかけとなっていました。それはパトリツィオ・ベルテッリとの出会いです。

 

ビジネスマンであったベルテッリは、高品質の革小物の製造で高い評価を得ているメーカーを2社所有していました。

 

ミウッチャは経営戦略面でのビジネスパートナーを得て、新たなプラダのビジネス展開は目覚ましく発展していきます。

 

ミウッチャのデザインは、「日常を贅沢に飾る」をコンセプトとし、斬新なデザインと革新的な素材を使い、プラダの歴史と伝統の調和を体現したデザインで人気を得ました。

 

特に有名なのが、祖父マリオが旅行用鞄に利用していた工業用の防水ナイロン素材「ポコノ」を用いてデザインされたナイロンバッグです。

 

当時、高級革製品が有名であったプラダのイメージを一新させました。 アパレル分野に進出したのは比較的最近で、1985年に靴、1989年に婦人服のコレクションをスタートさせます。

 

1993年よりプラダのセカンドラインとしてミウッチャの幼少期の愛称をブランドネームにした「ミュウミュウ」をスタートさせます。

 

プラダよりも幅広い年齢層をターゲットにし、少し控えめな高級感にして価格も抑え、気取らないカジュアルなイメージを前面に押し出しました。

 

また現代的で革新的な素材使いと、デザインの斬新さと伝統や歴史等の過去とのみごとな強い個性を見事に調和させたことによって世界的なブームになります。

 

ミラノコレクションで年2回のコレクションを発表、06年より最も規模の大きなパリコレクションへと発表の場を移し、ミュウミュウは世界中で愛されるブランドになります。

 

その後、1994年に紳士服のコレクションをスタート。96年になって逆三角形のロゴプレートを付けたポノコ製品を広く展開するようになります。

 

90年代後半にはスポーツコレクションである「プラダスポーツ」を発表し、美術プロジェクト「プラダ財団」の設立や、多数の有名ブランドの買収や売却を繰り返し、多角経営に乗り出しました。

 

プラダはイタリア初のブランドグループを作り、フランス企業で独占されるラグジュアリーブランド市場に風穴を開けようと闘いました。

 

一番最初の買収は、96年にグッチの株式を買い占めた事です。さらに1999年にヘルムートラング、ジル・サンダー、イギリスのシューズブランドのチャーチと、数々のブランドを買収。

 

また財政難にあったフェンディを傘下に置きました。

 

しかし、荷が重かったのか、フェンディは2000年にプラダ保有株式をLVMH(モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン)に売却、LVMHの全面子会社とし、ヘルムート・ラング、ジル・サンダーは2006年にそれぞれ売却しました。

 

こうして2000年代に入りバブルに踊った経営が長続きする事はなく、アメリカのITバブル崩壊と記憶に新しい9.11事件と呼ばれるニューヨークを震撼させたテロ事件によって、順調だった買収戦略、イタリア初のブランドグループ構想はあっさりと幕を閉じます。

 

90年代後半から拡大したブランドの多角化路線は縮小、プラダの伝統を継承しつつ、また、ブランドイメージの戦略としてハリウッド映画へも進出し「プラダを着た悪魔」というブランド名の入ったタイトルで、大ヒットしたこの映画は、世界的に認知度向上につながりました。

 

時代のニーズを的確に捉えた高いクオリティのファッションは、現在でも多くのブランドに影響を与えて続けています。

PRADAが人気の理由

PRADAが人気の理由

PRADAと言えば、ナイロン素材のバッグが有名ですよね。

そのナイロンバッグがファッショニスタたちの間で「プラダ一つで今っぽくなれる」と関西を中心に評判になっています。

 

その1つ目の理由がスモールグッズのバリエーションの豊富さ。

ショルダーバッグ・トートバッグ・巾着バッグ・スクエアバッグのバッグ類はもちろん、スマホケース、ポーチなど、種類がとにかく豊富なんです。また、ハンズフリーになれるのも人気の1つのようです。

 

2つ目の理由が、近年、地球環境に配慮するサステナブルへの意識が高まったことで、プラダの新しいナイロン製品であるリナイロンのバッグが若い世代からも注目され話題になっています。

2019年に「石油由来のナイロンアイテムを2021年末までにすべて再生ナイロンに切り替えるといった内容のRe-Nylon(リナイロン)」プロジェクトを始動し、地球環境に配慮した、100%再生素材を用いたナイロンバッグが販売されました。リナイロンのバッグは発表直後から話題となり、大人気のアイテムとなっています。

 

最後に2021年秋冬にPRADAの共同クリエイティブ・ディレクターとなったミウッチャ・プラダとラフ・シモンズにより、新生「プラダ」が誕生したことも理由の1つに挙げさせていただきます。

 

プラダのこれまでの歴史・人気の理由についてお話をさせて頂きましたが、少しでもPRADAに興味持っていただければ幸いです。

 


 

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